Chap 2  源平の巻

2.1 伊賀平氏の興隆

(1)平維衝(これひら。伊勢平氏の祖)、伊勢守になる
 桓武平氏の嫡流で平将軍と呼ばれた貞盛の子孫達は阪東各地で繁栄を続けたが、四男・維衝だけは伊賀、伊勢に根拠を置き勢力拡大に努めた。
 維衝は、長徳四年(九九八)勝手に都を離れ伊勢神領を騒がせた罪で流罪に処せられたものの、寛弘三年(一〇〇六)には再び伊勢守に任ぜられ、安濃部に進出して伊勢平氏の祖となっている。

(2)平正度(まさのり。維衝の次男)、斉宮ノ助になる
 維衝の次男・正度は斉宮ノ助に任ぜられている。
 当時の斉宮には五百人近い役人が勤務していた。神三郡と称する度会、多気、飯野は、「竹の都」と呼ばれた。その広大な神領は、朝廷から任命された大小宮司が政治的に支配し、一ノ禰宜以下二百余人の地元神官らが祭祀を司どる大所帯で、国司の支配外であった。
 将門の場合でも判るように神宮領は年貢が安かったので民衆から人気があり、正度の末孫になる正盛の頃には伊賀領内に随分領土を拡めたが、永長元年(一〇九六)その子・忠盛の生まれた頃には山田郡平田がその根拠となっていたらしい。

(3)平正盛(まさもり。正度の末孫)、隠岐守になる
 正盛は若い頃から青雲の志に燃えて都に上り、院の北面の武士となって白河上皇に仕えたが、故郷・伊賀には同族の平貞光を管理人として常駐させていたようだ。
 彼らは仲々の手腕家で、正盛が院に乱入した熊野山伏を捕えて武名を知られるようになると、地元の豪農を次々に傘下に加えてその領土を拡張し、やがては神宮領や東大寺領にまで喰込んだ。
 嘉保三年(一〇九六)、白河上皇は出家され法皇となった。一番可愛がった第一皇女六條女院を亡くしたからだ。この年、改元されて永長元年(一〇九六)になるが、忠盛の生まれた年でもある。この頃、正盛は官位も進んで隠岐守に任ぜられていた。
 白河院の専制君主ぶりを充分知って如才なかった彼は、直ちに亡き女院の菩提を弔う為と称して、父祖代々の所領の中から伊賀阿拝郡鞆田村と山田郡山田村の田畑と屋敷地を併せた計二十町を思いきって六條院に寄進した。
 と云っても現地の代官は今まで通り貞光らが当っているから名目だけで、実収にはさして響かなかったらしく、白河法皇は喜んで官職のほうを優遇してくれるから差引で損はなかった。

(4)平正盛、東大寺や伊勢神宮と争う
 処がそれを知った東大寺や伊勢神宮側から「それは怪しからん、その土地は昔から我らの領分である。正盛はそれを勝手に横領したのだ」と訴え出たから騒動となった。
 特に東大寺は黒田ノ杣(*1)と並んで玉滝ノ杣の出作りに懸命になって居り「鞆田村六十余町は四十人の杣工の衣食用に東大寺創建以来ずっと寺領となっている」とやかましく主張したが、現地の地主や農民達が「そんな事はない、わしらは昔から正盛様に仕えて来た」と証言したからどうやら勝訴となる。
 神宮領との争いも法皇が自から裁判官となって双方の云分を聞かれ「正盛の申し立てが正当である」と裁断されたからこれも勝つ事が出来た。これらの事件後は一段と順風で若狭守に進んだ平正盛は伊勢平氏の嫡流を凌いで一門の棟梁と見られるようになり、法皇も正盛の人柄を愛して寵用された。

(*1)三重県名張市

(5)平正盛、若狭守になる(源氏の対抗馬に)
 と云うのは、律令制社会が荘園制社会となるにつれ、武器を携えた僧兵が寺々に満ちあふれて互に抗争するようになっていたからだ。永保元年(一〇八一)の延暦、園城寺の争い(*1)では円珍が生涯をかけて再興した三井寺の大半が焼失している。
 三山が熊野権現の神輿を担ぎ出して以来、何かあると「山法師」と呼ばれた叡山の僧兵は日枝山王の神輿をかつぎ出し、寺法師の興福寺では春日神木を擁して強訴(*2)に及んだから、さすがの白河法皇も
「あゝ、まゝならぬものは鴨川の水と双六の目と法師共」
 とホトホト手を焼いている。
 力には力で圧さえねばならぬが院の警吏などでは手に負えぬ、やむなく源氏の武将に出動を命じて鎮圧させたが、只では使えない。賞として土地を与えると云う状況でその勢力は大きくなるばかり…。
「これでは先が思いやられる」と、競い合わせを得意とする白河法皇は、気に入りの正盛をその対抗馬に育て上げようと思い立ゝれたらしい。

(*1)天台宗の内紛。慈覚派と智証派の延暦寺の主導権争い。貞観元年(八五九)円珍(智証派)は延暦寺を降り、園城寺(三井寺)を再建する。平安末から鎌倉時代にかけて、ついに武力衝突へと発展。歴史に残っているだけでも十数回を数えるという。「山寺両門の争い」。
(*2)ごうそ。寺社が、仏罰・神罰や武力を盾に、幕府や朝廷に対し、自らの要求を通そうとした。延暦寺・興福寺などが有名。神輿や神木などの「神威」をかざして要求を行ない、通らない時は、神輿・神木を御所の門前等に放置。政治機能を実質上停止させるなどした。


(6)平正盛、源義親を追討して但馬守になる
 白河法皇は六條女院の死んだ年に生れた正盛の嫡男・忠盛を可愛がられて何かと目をかけていた。堀河天皇が没せられた嘉承二年(一一〇七)、彼らを大きく活躍させる機会が来る。
 半ば神に近い父・源義家にも劣らぬ武勇で知られていた源義親が、流罪中に出雲の代官を殺し官物を奪うと云う重罪をひき起こしたのだ。院では「誰を追討使にするか」でもめた末、法皇の意向で
「義親の子の為義に、実父を討たせる訳にはゆかぬ。平正盛父子に命じよ」
 と云う事になり、人々は驚いた。
「勇猛で聞こえた義親を相手にするには余りにも荷が重過ぎる。将門の乱のような事にならねば良いが」
 と云う噂を耳にしながら、正盛が元服前の忠盛を連れて都を出陣したのは師走の寒い朝だった。
 正盛は、伊賀一円の領内から勇躍参加した強壮な兵士団を率い、定めにより鎬矢を義親邸に射込んだ。歩武堂々と出雲に向ったがその数は余りにも少なく、白河法皇も心配だったらしい。それが驚いた事に一ト月もたたぬうちに「義親を誅した」と云う正盛の急報が入った。
 喜んだ法皇は直ちに正盛を但馬守に昇進させると伊勢安野津に領地を賜わった。晴の凱旋には異例の出迎えに出御されたから洛中は大騒ぎ。義親の首を一目見ようと弥次馬が巷にあふれ、
「見物の車馬、熱狂してこれを迎え、正盛父子の武勇をたたう」
 という光景を呈したから、六條堀川の為義ら源氏一門はさぞかし腹を立てたに違いない。
 その時賜った伊勢安濃津(現在の津市)の産土の地は忠盛誕生の地と伝えられるが、彼は多分京生れで、新領検分の為に出かけ暫く滞在した為だろう。

(7)平清盛が誕生する
 永久元年(一一一三)になると、十九歳になった忠盛が、宮中の宝物を納めた蘭林坊を破った有名な大盗賊・名張の夏焼大夫の隠れ家を襲い、子飼の郎党二人を失いながらも見事に捕えて忽ち従五位下に昇進した。
 続いて永久の強訴事件では数千人の興福、延暦寺の荒僧鎮圧に出動し、春日明神の使とされる神鹿をも恐れず射倒して、さしもの荒法師共を散々に敗走させ一段と勇名を馳せる。
 忠盛は武勇だけではなく法皇に米万石、絹万疋を献じて院の行事や寺院の建立に役立てると云う如才なさに、やがて法皇は寵愛されていた祇園女御の妹を妻に与えられる程になるが、その時「腹に宿っていた法皇の種が、女なら皇女とする。男なら忠盛の子とせよ」と云う意向であったらしい。
 やがて永久五年(一一一七)生れたのが男児で、清盛と命名して嫡男に定めたから、法皇もきっと喜ばれたに違いない。その子が元気で這い廻るようになった頃、彼は法皇の供で熊野に詣でた。
 それは元永元年(一一一八)の九月で法皇の寄進で新宮大社に一切経堂が完成した頃と思われるが、中辺路の大坂で一服された時、道端に実った山芋を籠に拾い集めた忠盛が
●芋が子は 這う程にこそ なりにけり
と云う一句を添えて献上すると、法皇もほほえまれ、
●ただもり取りて 養いにせよ
と下の句をつけられたと云うから、二人の間には主従を越えた親交ぶりが感じられる。

(8)平忠盛、武門のトップになる
 白河法皇には十余人の子があるけれど病弱で若死にされた方も多く、清盛が石清水八幡宮の祭りに舞人として舞台に立つと聞かれて喜んで見物に出かけているし、清盛が十二歳になるとさして功もないのに、従五位ノ下と云う源義家が前九年ノ役で苦斗した結果賜わった官位と同じ高位を与えられているのは、我子と認めていたからだろう。
 伊勢平氏の開祖である維衝の嫡流があるかないかの存在となっているのに比べて、末子の正盛の子孫がこのような栄達を得ているのは、二十余年前に伊賀の荘園を六條女院に献じたのが転機である。
 従って正盛以後は「伊賀平氏」と称したほうが適切で、今や忠盛は桓武平氏の棟梁とも云うべき地位に立ち、源氏を圧さえて武門のトップを占めた。

(9)平忠盛、富強を極める
 忠盛は、関東八平氏が源氏の郎党と化したのに対抗して、西国の国守を歴任し、宋国との貿易を一手に占めて富強を極めた。さらに南海道をも支配下に収めるなど、前途洋々たる繁昌ぶりで、一門の面倒も良く見ていたようだ。
 朝野の評判も「源氏はとかく共喰いする家風じゃが、平氏は一族仲良く手を取り合って共に繁栄を計るのが父祖伝来の血らしいわい」と上々なのは、伊勢平氏の嫡流達を厚遇した忠盛の寛厚で律気な人柄からだろう。
 そして源氏が八幡宮を家門の産土神と仰いだのに対抗して、伊勢と熊野権現を守護神と奉じて数々の寄進を献上じ、伊賀上野に親子で広大な平楽寺を建立したのを始め、仏法興隆に大きく尽力している。

(10)平氏と源氏の比較
 ただ源氏に比して劣る点は、八幡太郎のような古今無双の武将が生れていないこと。そして、関八州の広大な武士集団に比べて、神宮領三郡を除く伊勢と伊賀の狭い領土からしか子飼の郎党達を養成できなかった事だろう。
 伊賀山田郡平田を本拠とする平貞光の嫡流である家貞、服部郷の季宗、伊勢関を本拠とする信兼、安濃津の貞清ら一門の家の子郎党をかき集めてもその兵力は源氏の一割にも満たなかったと思われる。
 これが平氏の弱点であり、「驕る平氏も久しからず」と称された彼らの泣き処であった事を現在この地に住む子孫の人々はよく胸に刻んで置かねばなるまい。要は人であり、逆に云えば「よくまあ、あの狭い土地から天下を征する事が出来たものだ」と感嘆される。平氏が一族仲良く共存共栄を計った事がその偉業を達成したと云える。伊賀人にとって明日への大きな教訓とすべきだろう。

(11)白河法皇が亡くなる
 やがて大治四年夏、半世紀にわたり「治天の君」と呼ばれ「ねい仏政治」と影口された白河法皇が七十七で世を去ると白河院政に羽ぶりの良かった近臣群は忽ち権力の座から追われ、代って鳥羽上皇の側近が我世の春を寿ほぐ時代が来る。
 それにしても近親のすべてが若死にされているのに、法皇が喜寿まで生きられたのは「ひとえに熊野詣を重ねられた賜物ぞ」と人々は噂した。一段と熊野詣が勢いを増す中で、忠盛は南海道の海賊退治を終え、首領の日高禅師と云うから熊野生れと思われる悪僧以下七十余人を捕虜として凱旋しているが、出陣中に法皇の崩御を知ると、

●又も来ぬ 秋を待つべき 七夕の 別るゝだにも いとゞ悲しき

と詠じて哀悼の意を表しているのは、武将としての激務の中にも宮廷的教養を身につけ、歌道にも励んだ事が察せられる。

(12)平忠盛、三十三間堂得長院を建立する
 白河法皇に代って新しい専制者となられた鳥羽上皇(*1)が「明石の浦の月はどうであったか」と尋ねると、即座に、

●有明の 月も明石の 浦風に 波ばかりこそ 寄ると見えしが

と「明石」と「明し」、「夜」と「寄る」をかけた秀句を以て答え、「八幡太郎にも劣らぬ文武両道の名将よ」と賞讃されている。
 そして長承元年(一一三二)になると慌しい権変の時流の中で平氏の棟梁忠盛だけは巧みに時流に乗り、上皇の為に三十三間堂得長院を建立して一躍寵臣の一人となった。
 それについて平家物語は「殿上闇討」の章を設け
“天承元年(一一三一)三月、忠盛が備前守の時、鳥羽上皇の望みに応じて得長寿院を造営し千一体の仏を据え奉る。
 鳥羽上皇、御感の余りに内の昇殿を許されるにそれを聞きたる殿上人大いにそねみ、豊明りの節会の夜に忠盛を闇討ちにせむと議せられける。
 忠盛これを聞き「武勇の家に生れて不慮の恥に会わん事のいと心憂し」とてその夜は大いなる太刀を束帯の下にさして昇殿し、灯の暗き方にてこの刀を抜き鬢にあてられければ氷の如くに光り見え諸人目をすましけり……”
 と男盛りの三十六歳だった忠盛が晴の昇殿に際し、武門の棟梁として長袖の青公卿達から恥をかゝされるのを防ぐ為に、銀紙を貼った竹光と無二の腹心である左兵衛尉家貞とその子貞能の尽力によって見事に危機を凌ぎ、それを知った鳥羽上皇から反って賞賛されるエピソードを述べている。

(*1)崇徳天皇、近衛天皇、後白河天皇の三代二十八年に渡り実権を掌握。康治元年(一一四二年)には東大寺戒壇院にて受戒し、法皇となった。

(13)源為義と熊野・田鶴原女房
 平氏系図(*1)にもある通り、家貞は忠盛には伯父系の一族である。この時代にはその一の郎党として根拠地である伊賀国山田郡平田郷に代官として住み、阿拝郡柘植郷に常駐する一族の季宗らと共に、伊賀平氏の武士団を編成し、忠盛の両腕となった。
 忠盛が院の寵愛を受けて次々に昇進し、その子・清盛も保延三年(一一三七)には熊野本宮造営の功によって肥後守に任じられ西国にその勢力を伸ばし宋国との貿易で財力も大いに富み栄えた。
 それに比べ源氏の棟梁・為義のほうは御難続きで、嫡男・義朝を鎌倉に住まわせ何とかその勢力拡大に懸命となっていたが、親子仲が良くなかったのは子供が余り多過ぎた為かもしれない。
 新宮の熊野別当・長範の養女に十人目の男子が生れたのは保安六年だった。後の、新宮十郎行家である。別当としても熊野源氏の開祖となるべき御曹司だけに、熊野地の玉ノ井橋のほとりに一町四方の邸を新築し武将としての修行に努めさせる事にして大事に育てゝいた。ちなみに、行家の同母姉に「鳥居禅尼」(*2)がいる。

(*1)別途。作成予定。
(*2)源為義の娘で、源義朝の姉。鎌倉幕府の初代将軍頼朝の伯母でもある。新宮別当家の行範(十六代熊野別当・長範の嫡男)に嫁し,田鶴原女房(たつたはらにょうぼう)ともよばれた。


(14)平忠盛と熊野・浜の女房
 熊野地の十郎屋敷から遠からぬ浜王子社には里人達から「浜の女房殿」と呼ばれる評判の美女が住んで居り、その素性は地元王子ガ浜の豪力で知られた漁師の子らしい。
 フトした事から別当の目に止って、幼い頃から浜王子社の巫女となり、参詣人の世話をして過すうち巫女としての優れた素質と愛想の良さが評判となり、やがて行幸の供奉で再々熊野を訪れた忠盛に愛されるようになった。
 忠盛は文武両道に優れた武将ではあるが、外見上は渺目の不男でそれでいて結構、女性には目がなかったらしい。そして源氏の八幡信仰に対して然るべき守護神を持たなかった平家だけに院の供で参詣の旅を重ねるにつれその霊験にうたれ、熊野権現を守護神に奉じるようになった。
 鶴原の別当邸に泊って、阿須賀や王子社に詣でて家門繁栄を祈るうち、彼女を見てすっかり気に入り、度々神の託宣を求めて通う間に何時しか深い仲となった。けれど年に一、二度のはかない逢瀬にたまりかねた彼女は秘かに熊野を出奔し、彼を頼って都にやって来た。
 前記の通り忠盛の前妻は、今は亡き白河法皇の寵姫であった祇園の女御の妹だが、若くして亡くなったので後妻には藤原宗子と云う公卿の娘を迎えた。彼女は賢夫人で知られ、頼盛らを生んだ、かの池ノ禅尼である。
 浮気はしても元来が真面目で実直な忠盛だけに身近に置く訳にもゆかず、鳥羽院に勤めさせてコッソリと通っていたが、夏の盛りの或夜、何時ものように忍んで来た彼が帰りにうっかり扇を忘れた。
 朝になって月の出を画いた男持ちの扇が縁先に落ちているのを見つけた院の女房達が「これは、これは一体いずこから入りたる月やら?ハテさて月の行方は如何に……」と大騒ぎではやしたてると彼女は、
●雲居より 只洩り来る 月なれば 朧気にては 云わじとぞ想う
と見事な一句で応じたので女房達もすっかり感心し「さすが風流武人と云われたる忠盛殿の想われ人にこそ」と院中の話題となった。

(15)平忠盛9/浜の女房殿は熊野へ戻る〜忠度の誕生
 けれど二人の逢瀬もそう長くは続かなかった。やがて彼女が身ごもると、何時までも宮仕えはさせられず、扇の一件以来は妻の目も険しくなっている。思案の末に彼女の望み通り一度熊野へ帰す事に決め、やむなく別当に細々と一書をしたためて依頼した。
 彼女が出奔した時はひどく怒っていた別当も今をときめく刑部卿・忠盛の頼みだけに喜んで承知したものの、さて彼女の住んでいた浜王子社は十郎屋敷に余りにも近すぎるし「何処ぞに良い場所はないか」と思案した。
 と云うのは競い勝ちな源平両氏の棟梁の血をひく御曹司を同じ新宮に住まわせてはと案じた為である。結局平氏にとっては因縁も浅からぬ楊子薬師の対岸にある九重音川の里に邸を持つ神官・宮井外記を守役として彼女を託する事にした。
 音川で浜の女房が玉のように元気な男の子を生んだのは天養元年(一一四四)四月半ばで青葉の谷間には美しい鶯の声が流れていたろう。そして都の忠盛は五十に近い末っ子だけにひどく喜び、巨額の養育費に平家ゆかりの名刀をそえ、成長の後は忠度と名乗るようにと子飼の郎党に託して来た。
 時に熊野地の十郎屋敷に住む義盛は四才のいたずら盛りで、やがて訪れる源平動乱の世にその武名を天下に知られる熊野生れの両雄は、共に清烈な大河熊野川のほとりですくすくと成長していったのである。

(16)平清盛、瑞兆を見る
 久安三年(一一四七)は平家にとっても大きな事件の起きた年で、平家一門の新しき星である清盛が大国安芸守に昇任されたのはひとえに熊野権現のお陰であると、その春には伊勢の津港から海路熊野にお礼参りに向ったが、波も穏やかな春の海を航海中に大きな鱸が船中へ飛び込んで人々を驚かせた。
 それを見た清盛は「昔、周の武王の船に白魚が躍り込み、やがて天下を制する事になったと云う吉兆がある。精進潔済の旅ではあるが、これも権現様の神意とあれば辱けなく頂戴してそなたらにもお裾分けをしよう」と刺身に作り、家貞ら郎党達にも食べさせて大いに前途を祝した。
 そして無事に三山を巡拝して都に帰った夜、枕辺に美しく神々しい熊野結大神が立たれると「西八條の地に若一王子の御神体が埋もれている、汝はそれを掘り起して祀れ、さすれば一段と立身出世は疑いなし。」と告げられた。
 感激した清盛が夜の明けるのも待ちかねて西八條に走り、夢で見た光景と良く似た地を掘って見ると果せるかな黄金まばゆき神像が出現されたので喜んで邸の守護神として祭った。

(17)平清盛、神輿に矢を射る
 その夏になると延暦寺が強訴に及び、法皇の命で警備に当った清盛が神輿を奉じて暴れる神人達と争い敢然とそれを矢で射貫いた為に大騒ぎとなり延暦寺では忠盛、清盛を流罪にさせよと厳しく院に訴えた。
 神輿に矢を射かける等と云う事は当時としては破天荒な大事件であったが厚く熊野権現を信じる清盛には確呼たる信念が燃えていたようで、院の裁きも幸い銅三十斤を納める事で落着し、反対に清盛の名は天下に轟いた。
 これを聞いた新しい熊野別当・田辺湛快は一段と平氏に惚れ込み、御幸で見えられる法皇やその寵姫・美福門院にも大いにその人柄を讃え、清盛もそれに答えて、中国貿易で蓄えた豊富な財力に物を云わせ、造営その他に色々と尽力した。
 仁平三年(一一五三)熊野音川の里で生まれた忠度が漸く九才になった頃、父忠盛は五十八才で世を去り、幼なくして母を失った彼は続いて物心ついてから僅か数度会っただけの父を失う悲劇を迎える。
 忠盛の死を知った左大臣・頼長は「数国の受領をへて富は巨万をつみ、家人は国に満つ。
武威世に高きも人となり恭謙にして奢移の振舞なし。」と珍しく高く讃えているが、忠盛が世を去っても、その子・清盛健在なる限り、平氏の屋台骨は揺がず、忠度の前途もまた洋々たるものがあった。

(18)源為義の周辺
 それに比べて源氏の長者・為義の運勢は余り振わなかった。嫡男・義朝が興福寺と争った為に免官となっていたのをやっとの事に復職したのも束の間、久寿元年(一一五四)には十郎のすぐ上の兄である鎮西八郎・為朝が九州で大暴れした。その為に鳥羽法皇が激怒され、「為朝に従う者は厳罪に処す」との院宣を発し、為義は謹慎して罪をわびている。
 翌年(一一五五)、東国で勢力拡大に努めていた義朝の子・義平(為義の孫)が、為義の命で志田に下っていた次男・義賢(義平の叔父になる)と争い、叔父を殺して「悪源太」の名で世を驚かせると云う事件を起こした。(大蔵合戦)
「それ、またも源氏の共喰いぞ」と貴族達は嘲笑し、鳥羽法皇の覚召しも一段と悪く、度重なる御幸警備にも平氏ばかりで、為義の姿を見る事がなくなった。

(19)保元ノ乱1/後白河天皇、即位する
 久寿二年(一一五五)の夏になると全国的な飢饉の中に近衛幼帝(*1)が世を去った。やがて帝位に就かれた後白河天皇は、崇徳上皇の同母弟である。鳥羽法皇から「とても皇位に就く器に非ず」と三十近くまで冷飯扱いにされていた皇子で、一度思い立った事は見境いもなく実行される。田楽、小笛、果ては今様と云う流行歌に夢中になるかと思えば、男色、女色の両刀使いと云う好色家である。帝位についた後も大学者の信西少納言から「古今無類の暗愚な帝」と冷評されている。後白河が帝位に就いたのは、鳥羽法皇の寵姫・美門福院が猶子(*2)としていた守仁親王(後の二條帝)を皇位に就けたい為に、その父である後白河をホンの一時即位させただけである。
 崇徳上皇は、鳥羽法皇亡き後は院政を開いて「治天の君」の地位に就く事を待望して日々を耐えていた。しかし後白河の即位の為に、その望みを断たれ、我子も皇位からしめ出されたのを知って深く怨まれる。
 保元元年七月、専制者・鳥羽法皇は世を去るが、臨終の床にかけつけた崇徳上皇は枕辺に近づく事も許されず、怨を呑んで空しく邸に帰られた。それを見て同じ境遇にあった摂関家の才物、左大臣・藤原頼長が崇徳上皇を擁して権勢を回復すべく武力によって事を決せんとする。ここに父子兄弟が血を血で洗う「保元ノ乱」が勃発することになる。

(*1)鳥羽天皇の第九皇子。母は藤原氏の美福門院(藤原得子・ふじわらのなりこ)。
(*2)猶子(ゆうし)とは、明治以前において存在した「他人の子供を自分の子として親子関係を結ぶ」こと。ただし、養子とは違い、契約によって成立し、子供の姓は変わらないなど、「法的な」親子関係という意味合いが強い。


(20)保元ノ乱2/後白河天皇と崇徳上皇が争う
 七月十日、かねて臣下の礼をとっていた藤原頼長と、崇徳上皇からの再三の院宣を受け断わりきれなくなった源為義が長男・義朝を除く六人の息子達と、白河の崇徳院に参じた。いっぽう後白河天皇の高松御所には鳥羽法皇の遺言として、源義朝や平清盛、伊勢平氏の平信兼らが召されて忽ち戦いとなった。
 けれど俄かな開戦に藤原頼長が頼みとした興福寺の僧兵さえ間に合わなかった程で、遷都以来三百六十年、都が戦火にまみれるのはこれが始めてである。開戦に際し還暦を迎えた老朽な源為義は千騎足らずの味方の寡兵を見て長期戦を提案したが否決された。豪勇無双の源為朝は、それが容れられぬと知るや「直ちに高松殿の夜襲火攻め」を主張した。けれど藤原頼長は才を誇ってそれも取り上げなかった。
 反対に天皇方では、実力者であった信西入道(*1)が「戦さの事は万事武門に任すべし、邸の一つや二つ焼けたって建直すまで」と源義朝の焼討ち策をすんなり採用したから戦いは一夜にして決し、崇徳上皇方の敗戦となった。

(*1)藤原 通憲(ふじわら の みちのり)。貴族・学者。藤原南家の末裔。当世無双の宏才博覧と称された。信西(しんぜい)は出家後の法名。

(21)保元ノ乱3/源為義、嫡男・義朝に殺される
 藤原頼長は流れ矢で死に、源為義は天皇方についた嫡男・義朝を頼って自首した。義朝は「何とか父の命だけは」と願ったものゝ「朝敵はすべて斬れ」との冷酷な信西の裁定に父と弟達をすべて斬らざるを得なくなった。これは平清盛が信西の云う通り真先に叔父一族を斬った為である。
 然しそれを知って平氏相伝の老臣である伊賀の家貞は大いに腹を立て清盛に
「武夫は情深く物の哀れを知り罪ある者を許してこそ神の冥加あるもの。叔父、叔母は親と同じであると云われるのに何たる事を為さったか」
 と涙を流して叱責し、これには清盛も一言もなかったと云う。
 それにしても源義朝がその事を正直に云わず、父・為義を欺いて斬ろうとし郎党の波多野次郎が
「実父を闇討するとは余りにもひどい。せめて事情を打明け、最後の念仏をすゝめるべきだ」
 と敢て為義に泣く泣く言上した。
 為義も驚いて
「仏は衆生を念ずれど衆生は仏を思わず、親の子を思う程に子は親を思わぬと云うが正にその通りだったか」
 と嘆き、
「せめて戦に加わらなかった乙若ら四人の幼児だけは何としても助けよ」
 と遺言して斬らせている。
 然し義朝は「男はすべて殺せ」と云う冷たい勅命通り、戦さに加わった者は元より何の罪もない乙若以下の幼弟まで斬らんとした。それを知った乙若は死に臨んで聊ゝかも乱れず、
「兄に一言伝えよ“昔よりその例しもなき実の父や兄弟のすべてを斬って我身一人の栄華を計ろうとも、遅くも七年早くば三年のうちに因果は巡ってその身も亡び、源氏の種も絶えなん”と年幼い乙若が申したとな。」
 と健気にも云い残したと伝えられる。それを聞いて母である為義の正妻は悲しみの余り保津川に投身して果てた。都の貴賊は「天道も人道も滅びたるか」と嘆き、僧・慈円(*1)は「これより後は武者の世となりける」と記している。

(*1) 天台宗僧侶。鎌倉時代初期の史論書「愚管抄(ぐかんしょう)」を著す。

(22)保元ノ乱4/新宮十郎、都へ行く
 乱後の都では勲功第一の源義朝が正五位ノ下左馬頭に進んだ。それに対し、戦さでは逃げ廻っていた平清盛が正四位播磨守から太宰府ノ師の要職に進んだ。また、対宋貿易を一手に占めて一段と富強を誇り、冷血政治家・信西にもひどく気に入られていた。
 巷の評判も親兄弟の仲の良いのは「平家型」と云われるのに比べて、義朝は「何ぞ情なや義朝様は」と歌われ、「親殺し」の悪名も高い。何とか源氏の勢力を伸ばさんと焦った彼は熊野に在ると聞く末弟を呼び寄せる事にした。
 召命を受けて喜んだ新宮十郎が熊野早船に乗じて新宮を出発したのは父の三回忌も済んだ保元三年の春で歳も十九、青春多感の頃である。やがて兄の顔で検非違使の下役に就くと日夜職務に精励し「左馬頭殿の弟御は智勇兼備の頼もしき若武者ぞ」と人にも知られ始めた。


(23)平治の乱1/後白河天皇、上皇になる
 明けて平治元年(一一五九)後白河天皇は譲位して上皇となり二條天皇が即位される。
 賢主の誉れも高い天皇の親政を望む声も多い中に、院政の中心勢力である信西と上皇の寵臣である藤原信頼の対立が深まり、これが平清盛と源義朝の抗争を呼んだ。天下は武力を以て容易に決する事を知った人々は一路それに突進する。
 平家全盛の世をもたらした「平治の乱」は上皇の男色の相手だった藤原信頼が右近衛の大将を望み、院の承諾を得たのに信西にはねつけられた事から始まる。藤原信頼は信西を怨み、源義朝や天皇親政派と結んで捲き起こしたもので、こんな人物と手を組んだのは源義朝の大失敗であった。
 然し「鹿を追者、山を見ず」の諺通り、クーデターによって信西と平清盛を打倒すべく秘そかに計画を進めた源義朝は、折から平清盛が我子・重盛の三山造営奉行就任を喜び親子揃って都を出発すると聞き「時こそ来れ」と勇み立った。

(24)平治の乱2/清盛親子、熊野から引き返す
 平治元年十二月九日、藤原信頼と源義朝らは天皇親政派の側臣や多田源氏の頼政を味方に誘い、東三條殿を焼いて上皇、天皇を幽閉した。信西を捕えて梟首にすると勝手に論功行賞を行い、藤原信頼は宿望の大将となり天皇気分で我世の春に酔いしいれ、忽ち人心を失った。
 一方、清盛親子は腹心の家貞ら僅かな郎党と共に熊野をめざしていたが、切目王子という場所でその変事を聞かされ立往生の形となった。然し親友である熊野別当・湛快やその子・湛増が手兵を率いて駈けつけ、また、湯浅宗重が精強な一隊をつれて援軍に参じたので漸く意気揚り、一路都をめざす事にした。
 切目王子の社前で「勝利を得なば必ず立派な社殿を寄進する」との誓いを立て、無事に六波羅に入った。やがて藤原信頼の隙をついて天皇親政派を味方にし、巧みに天皇、上皇を脱出させると朝敵追討の宣旨を賜わり、
「年号は平治、処は平安、我らは平氏と三拍子揃ったこの一戦に勝利は疑いなし、進めや者共!」
 と陣頭に立った二十三才の重盛に対して、義朝の嫡男、十九才の悪源太・義平の一騎討ちが待賢門で華々しく展開したのは余りにも有名だが、大義名分は明らかに平家にある。
 御所を守った十郎は初陣だけに大いに奮戦して清盛勢を追い崩し、勢に乗じて敵の本陣である六波羅に迫ったが、その隙に御所を占領され、その上朝敵となったのを嫌った頼政ら多田源氏の裏切りで味方は総崩れ、彼も足に重傷を受けると「もはやこれまで」と腹を切ろうとした。
 けれど子飼の郎党・五郎を始め熊野山伏達が必死で追手の目をかすめ、秘密の山伏道からようやく熊野に落ち延び得たのは誠に幸運だったと云える。

(25)平治の乱3/源義朝、欺し討たれて死す
 いっぽう東国での再挙を期した義朝は八瀬から西坂本へ落ちる処を叡山の僧兵達に襲われ、義平、朝長、頼朝らは雪の中を散り散りとなった。義朝は辛うじて尾張に落ち延びたが、家人である坂東平氏一門の長田忠致に欺し討たれて無念の最後をとげる。
 美濃の青墓から独り東国に向った頼朝は、伊賀柘植郷を本拠とする平家一門の侍大将の弥兵衛宗清に捕えられて都に曳かれ、既に断罪ときまっていた。しかし、その人柄を見た弥兵衛宗清が何とかしたいと清盛の継母・宗子(池ノ禅尼)に
「頼朝は熊野詣の旅の帰りに宇治で死なれた家盛様に瓜二つです。何とか命だけは助けられては」
 とすすめた結果、伊豆に流罪となる。
 続いて莵田の岸ノ岡にかくれていた常盤(*1)らを捕えたものゝ、戦に参加して奮戦した敵将の嫡子を許す以上、頑是ない牛若ら幼児を斬る訳にはゆかなかった。常盤の美貌に溺れてその命を助けた為に、後世、稀代の政治家・頼朝と天才武将・義経を世に送る結果となった。

(*1)源義経の母

(26)平清盛、太政大臣になる
 それにしても頼朝以上に奮戦した新宮十郎義盛が敗戦後に熊野落ち、姉の丹鶴夫妻にかくまわれているのを湛快の通報で知りながら、清盛は敢えて追求していない。これは、かねて守護神として信仰して来た熊野権現の神慮を恐れたとは云え、清盛の温かな人柄と云える。
 平治の乱の十年後、仁安二年(一一六七)には清盛は太政大臣に躍進する。法皇に愛された義妹・滋子が皇子(高倉帝)を生み、今熊野社や三十三間堂の完工など仏教の法皇に取入った為とも云われる。しかしやはり彼の血筋と器量であったろう。
 仁安三年には高倉天皇が即位し、承安元年(一一七一)には娘・徳子が皇后となるや平家一門の公卿、殿上人は三十余人を数えた。まさに全盛を誇る世となり、治承元年その勢いを憎む後白河法皇の有名な「鹿の谷の陰謀事件」も起きている。
 然し治承二年(一一七八)徳子が後の安徳を生み、その権勢にゆらぎもなかったが、翌三年(一一七九)になると激動の世の幕がきって落とされる。

(27)平清盛、クーデターを起こす
 突如!清盛は
「(後白河法皇は、私、清盛にとって)柱石であった重盛の死を知りながら平気で八幡宮に行幸して遊宴を開かれた。また、重盛が子孫末代までとの約束で賜った越前領を没収された。それは子を失い悲しみに暮れる七十路の老父(清盛)に(後白河法皇が)敢えて挑戦されたものだ。これは、正しく鹿谷で平家倒滅を計られた二の矢に外ならぬ」
 とその怒りを明らかにし、側近にあって院政を司る関白以下四十余人の官職を停めて流罪にし、法住寺御所を軍兵で包囲して後白河法皇を鳥羽殿に幽閉、院政を廃止すると云うクーデターを断行した。
 そして宗盛を内大臣にし、娘聟である藤原基通を関白に任ずると、同じく娘聟である高倉天皇に
「今後の政務は万事帝の思いのまゝにせらるべし」
 と云って福原に帰った。
 けれど高倉天皇は「法皇の譲り給うた世なればともかく」と取上られず、秘かに後白河法皇に手紙を書かれ、
「かかる世に帝位に在りて何になろう、花山法皇の例しもあり世を逃れ流浪の行者とも成りたし」
 と嘆かれている。

(28)安徳幼帝(平清盛の孫)、即位する
 高倉天皇は、治承四年(一一八〇)の二月になると二十の若さで退位して僅か三才の安徳幼帝が即位された。清盛は外祖父として淮三后(皇族に準ずる待遇)の権勢を専らにしたから、院を囲む反平氏陣営の人々は一段と不満を高めた。
 これを見て新宮に潜んでいた新宮十郎義盛は「苦節二十年の時節到来」と秘かに上京して、院の側近や都に還っていた文覚上人達と密謀を重ね、一門の長老である源三位頼政をかき口説いた。このため、さすが慎重な源頼政も遂に挙兵に踏切り、高倉上皇の兄になる以仁王を奉じて、全国の源氏に平家追討の檄文を発する事を決心した。
 それは恐らく鳥羽殿に幽閉されている後白河法皇の密命でもあったろう。治承四年四月、源頼政の邸に潜んで待機していた新宮十郎義盛に王の召命が下り勇み立って参上した彼に、以仁王は自ら筆を取って、
「東海、東山、北陸の諸国源氏に下す、清盛法師ら叛逆の者共を早々に追討すべし」
 との令書をしたゝめられ、
「これを以て各地の源氏を蹶起させよ」
 と命じた。さらに、無官では重味が足りぬと八條院ノ蔵人に任じ、その名も行真と号された法皇の一字を賜り「行家と改めよ」との有難い上意を下された。

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